津島でら寺巡り

津島でら寺巡りと津島のお寺のレポートを発信していきます

九品山蓮台寺(2019.4.14津島てら・まち御縁結び)

去る4月14日、津島市主催の「第5回てら・まち御縁結び」が開催され、蓮台寺にてご住職の法話が行われた。

 

「当山の開基は彌阿(みあ)上人です。皆さんもご存知の堀田家の血筋の方です。」

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「商人の堀田家は弥冨の2/3くらいは自分で干拓したとのことで、すごい大地主です。
今も、お屋敷が残っていますね。侍のほうは千葉県の長嶋監督の出た佐倉の殿様になって行ったわけです。
で、三代将軍の家光のころには老中とかね要職を歴任されております。
その堀田氏の堀田正重公の一番末子が、あそこにみえるんですね。彌阿(みあ)上人といいます。
『阿』というのは『時宗』ではナントカ阿弥陀仏、だから彌阿、浄土宗でもじしょという2回目の修業を受けると『阿』がつく。
私は向かう阿、『向阿(こうあ)』、先代は『念阿(ねんあ)』です。
皆さんが戒名を受けるときには浄土宗ですと『~誉(よ)』というのがつくのが流れをくんでいるという印です。
津島では西山派の蓮華寺の人がけっこういらっしゃいますので、そちらは『~(ふう)』というのがその会を表しております。

本願寺さんは『釋(しゃく)~』でしょ。本願寺さんでも高田派は下に『真じ』とか『真如』とかね。
だいたい戒名を見れば、どの宗派というのが分かる訳ですね。

だから、『彌阿』というお名前から時宗の上人ということがわかるのですが…まずはこの裏を見ていただきましょう。

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「横に一向上人像というのがありますが、一向上人を皆様あまり知らないようです。

当寺は(像を)外にも造ってございますが…なんで知らないかというと、40代という若さで亡くなられたそうです。
その時代、蓮如さんが現れた。それで、浄土真宗が広がったんです。
浄土真宗は)親鸞さんと思ってみえる方があるかも分かりませんが、もともとはそうですが、蓮如さんがお生まれになった頃の浄土真宗本願寺というのですが、京都でも全然勢力はなかったようです。
8代目の蓮如さんが出て、大きくした。すごいスーパーマンですよ。
それともう一つは北陸門徒のところ、今の福井県あたりで一向上人の念仏踊りの『講』があったんですね。お寺はなかったけど、そういう集団があった。そこへ布教をしていったのが蓮如さんなんです。
だから、蓮如さんが一揆を起こしたときに『一向一揆』と呼ばれることがあったんです。

蓮如さんは、俺は一向宗じゃない、本願寺だ、と。ただ、母体が一向上人が広めていった念仏踊りの集団だったからみんな、一向宗本願寺も変わりはないと思ったらしいんです。

区切りをきちんとつけたのは江戸時代です。米原蓮華寺に行くと、一向上人時代の釣り鐘があります。これは国の重要文化財ですね。
一向上人はもともと浄土宗の流れを汲んだお子さんでした。
時宗というと一遍上人のことを思い起こされるかもしれませんね。
箱根駅伝遊行寺(ゆぎょうじ)坂というのがでてくるのですが、その藤沢の遊行寺をお開きになった時宗の開祖です。
一遍上人は浄土宗の西山派のほうの流れを汲んでおる人ですね。
西山派は、浄土宗とは少しだけ考え方が違うんですね。

全国的に申しますと現在浄土宗、派のつかないほうは6500か寺くらい。
西山派のほうは3派あるのですが、全部で1200~1300か寺くらい。
そのうち700くらいが粟生の光明寺浄土宗西山派、津島では浄土宗西山、禅林寺派というのがございますが、これが400くらい。
(派がつかない)私たち浄土宗の愛知県分と同じくらいです。
それからもうひとつ、浄土宗西山深草派は今は300くらいでしょうか。とても苦しんでおります。
というのは土地がなくなっちゃったというかね、いろんなお寺さんは農地改革までは年貢である程度食べていけたんですね。
しかし年貢がなくなったら食べていけない。岡崎に大本山もあったのですが、深草は存続が危ぶまれております。

このように、流れがすこしづつ違いますよ、と。その中で一向上人は鎌倉の領地の3代目の御前様からのお弟子さんなんです。
そこから踊念仏のほうへ傾いていったのが一向上人。」

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「私共のこのお寺も、昭和29年までは浄土宗ではありませんでした。
時宗の一向派でした。17代に代わって…昭和29年に変わるなんておかしいと思われるかもしれませんが、当時、住職は兵隊に行っておりましたので届けが出せなかったというわけです。
今は浄土宗のお寺です。

最期になりますが、織田信長が置いて行ったのが墨書きというのでしょうか、昔はトキの勢力者の庇護というんですかね、税金を払わなくてもいいよ、とかここの土地は無税にしてやるとか、そういう墨書きをもらってお寺は成り立っておったんです。

織田信長も、このお寺の権利といいますか領土を守ってくれたうちの一人です。
戸を開けておきましたが毘沙門様、戦いの守り神みたいなものですね。これをくださっと伝わっております。」

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「もう一点、入ってくるときに山門をくぐられたと思いますが、本来は赤門なんですね。」

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「どこのかといいますと八開の赤目城、ここに尾張藩の家老、筆頭家老は犬山城の城主ですので何番目かの家老です。
ちなみに尾張藩は全国で一番大きく、その筆頭家老というと1万石なんですね。だから旗本よりも全然うえですし、大名ではないのに城に住まわせてもらえていたのですね。

江戸時代は殿様は逃げ道を考えていますので名古屋から北へ逃げていくときには差しさわりがあるのは木曽川だけだと。だから犬山に拠点を作っておいたと。


今度、西に逃げていくときは赤目城が必要だったんです。木曽川も今のように1本ではございません。細かい川がちょろちょろとあったので小さな船で順々に渡っていけば逃げることができると。

木曽川長良川を越せば高須ですので、高須藩尾張の分家ですので、そこまで行きつければ殿様は命を保証される。

このように逃げ道のために家老の所領を配置した、そのうちの一つである赤目城の赤門なんです。
しかし文化財にはなっておりません。先日の台風で戸がちぎれちゃいましたがそのうちきれいにしたいと思います。
ただ、お寺の門ではありません。武家の門です。形を維持していきたいと思っております。

最期に十篇のお念仏を唱えさせていただき終わらせていただきたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。」

 

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ご本尊に向かって一同、手を合わせる。

 

かつて教壇にたたれていたご住職は専門が歴史とあって、この地の歴史をからめた、大変熱のこもった造詣深いお話であった。それは、このお寺がもつ歴史がそうさせるのかもしれない。

 

今回はお話を伺うことが出来なかったが、境内には弘法堂や八十八か所巡りがあり、また、本堂右手には善光寺もお祀りされている。改めてお参りに訪れたいと思う。

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